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Contents

01 基本情報

02 幼少期〜中学時代:バスケットボールとの出会い

03 高校生〜大学生:寝ても覚めてもバスケット生活

04 新社会人:大手企業のプロバスケットチームへ

05 24歳〜30歳:バスケット引退後、初めての生活

06 31歳〜34歳:妻として母としての自分

07 35歳〜:退職、そしてオンライン秘書スタート

 

基本情報

・オンライン秘書
・こあ
・1987年11月22日(36歳)
・一児の母

〈実績〉
・元アスリート
・上場企業で11年の事務経験
・1年で20名のクライアントさんのサポート
・300万円〜4,000万円のプロモーションの裏方

〈サービス内容〉
・プロモーションの裏方
・UTAGE構築代行
・LINE配信
・講座サポート
・スケジュール管理
・お問い合わせ対応

 

幼少期〜中学時代:バスケットボールとの出会い

私は、大阪のごく一般的な家庭で生まれました。

サラリーマンの父親と、専業主婦の母親。

学校から帰ると、母親が自宅にいるのが
当たり前の家庭でした。

父親が外で働き、母親が家族のお世話をする。

食卓には毎日、テーブルに乗り切らないほどの
料理が並びます。

幼い頃は当たり前だと思っていましたが、
今ならそれがどれだけありがたいことかわかります。

そんな平凡な毎日を送っていたある日、
友人から地元のミニバスケットボール教室の
体験入学に誘われました。

あまり乗り気ではありませんでしたが、
体験だけならと参加してみることに。

この体験入学がきっかけで、
15年間寝ても覚めてもバスケットの生活が始まります。

地元中学は玉遊びレベルの弱小チームでした。

体育大学で、バリバリのバスケット経験者の両親から生まれた私は、
中学一年生で168cmの身長に恵まれていました。

周りからの期待も(プレッシャーも。笑)大きく
学校の朝練、夕練に加えて、毎日、日が暮れるまで家の庭で自主練習。

さらに、週に一度、同年代の男子に混ざって夜練の日々を送っていました。

この時の私は、自分がやりたいと言うより、
両親を怒らせないように自主練習をしていた記憶があります。

おかげで勉強はさっぱりでした。笑

周りが受験勉強に励む中、
相変わらずバスケットをする日々。

テストの点数は20点、30点も珍しくありません。

しかし、恵まれた体格と日々の努力のおかげもあり、
スポーツ推薦で高校は決まりました。

 

高校生〜大学生:寝ても覚めてもバスケット生活

高校入学とともに地元を離れて寮生活が始まりました。

部活の休みは年に一度2日間のみ。

クラスメイトが放課後、カラオケやバイトにいく中、
朝から晩まで体育館に通う日々でした。

地元から車で片道3時間かかる距離の
高校に通ったため、両親と会えるのは月に1度ほどでした。

それでも大切な試合には、
カメラ片手に全国どこにでも応援に来てくれました。

大学もスポーツ推薦で決まりました。

4年間もバスケットをしたくないと、
わがままを言って、特別に短大へ入学させてもらいました。

大学の2年間はあっという間でした。

教員免許もアルバイトも禁止されていたので、
大学でも相変わらず部活中心の生活でした。

周りが髪を染め、化粧をしている中、
すっぴんジャージで授業に出る日々。

ある日、いつも通り体育館へ行くと
1人の女性が練習を見学していました。

誰なんだ?と疑問に思いながらも
その日の練習を終えると、私は監督に呼び出されたのです。

その時見学していた女性は
私をスカウトに来たある実業団チームの監督でした。

まさか自分がプロの世界にいけると
夢にも思っていませんでしたが、

私はその場でプロに挑戦しようと決めたのです。

両親にも相談せずに。。。笑

 

新社会人:大手企業のプロバスケットチームへ

形だけの入社試験を終えて晴れて新社会人になりました。

高校、大学とそれなりにハードな練習に耐えてきたつもりでしたが、
今までの練習とは比べ物にならないくらい、プロの世界は厳しいものでした。

入社してすぐに、
高校生の時から痛めていた肩の手術をしたり、
骨折したり、、、

頑張りたい気持ちとは裏腹に
身体は言うことを聞いてくれませんでした。

頑張りたいけど頑張れない。

怪我ばかりで監督からも期待されず
そこに存在しないものとして扱われる。

身体だけでなく、次第に心も不安定になっていきました。

夜も眠れない。寝ても悪夢にうなされる。

しまいには、ストレスで突発性難聴になり
バスケットボールを触ることすら怖くなってしまったのです。

今思えば、あの時の私は軽い鬱状態だったと思います。

そしてたった4年間で、チームを去る決断をして、
15年間のバスケットボール生活に終止符を打ちました。

バスケットを辞めて感じたこと。

それは、この15年間両親に支えられ続けてこれたということです。

試合に出ても、出ていなくても
いつもどんな時でも、全国各地の試合に応援に来てくれていました。

勝った時には一緒に喜び、負けた時には一緒に涙を流す。

どんな時でも、
「思いっきりやればいい」そう背中を押してくれたのです。

いつか自分に家族ができた時、
私も両親のように子供を大切にできる家庭を築きたいと
どこか憧れを持つようになりました。

 

24歳〜30歳:バスケット引退後、初めての生活

競技引退後は会社の事務員として働くことになりました。

このまま定年まで会社に勤めれば、
退職金も沢山もらえて、一生安泰に暮らしていける
と思ったからです。

アルバイトすらしたことがなかったので、
冷や汗をかきながら、震える手で電話にでた日々が今でも懐かしいです。

慣れないPC作業にも苦労しました。
タイピングも遅く、誰よりも時間がかかりました。

だけど、

・依頼された業務は短納期でミスなく納品する。
・一度依頼された定例業務は、
 次回から依頼される前に作業を終わらせる
・上司が忘れていそうな業務はそっと裏でフォローする

わからないなりに、小さな気遣いを心がけていました。

すると、上司からも評価され、
とても可愛がってもらえるようになりました。

自然と業務量も増え、
周りの事務員さんが定時で帰る中、
1人20時まで残って働く日も珍しくありませんでした。

しかし、その状況をよく思わない人が現れます。

そう。。。お局です。。。

そこから私は1人のお局の標的になったのです。

上司と不倫をしているなど
ありもしない噂を流されたり、

上司が可愛がってくれるのは、
若いからだ。勘違いすんなと言われたり、

自分ばかりいい仕事を取るなと言われたり、

散々でした。笑

頑張っても嫌味を言われるだけなら頑張るのはやめよう。

これからは、生活のためだけに程よく働いて定年を迎えよう。

そう心に誓いました。

すると今度はまた別の感情が生まれたのです。

仕事が面白くない。

嫌味を言うお局の機嫌をとり
上司に言われたことだけをただこなす毎日。

あれ?私は定年までずっとこんな生活を続けるの?

そんな違和感を感じるようになりました。

だけど、資格もない自分が、転職なんてできないと
一度は自分の気持ちにフタをしたのです。

そんな時、競技時代の友人が結婚することになりました。

全国から集まった、懐かしい顔ぶれとの再会を楽しんでいると、
二次会で日焼けしたマッチョなチャラ男が隣の席に座ってきます。

それが旦那との出会いでした。

・日サロで焼いた黒い肌
・筋トレで鍛えたマッチョな身体
・ツーブロックの髪型
・彫が深い顔
・色付きのサングラス

どこからどう見ても遊び人でしたが、
思いやり溢れる人柄に惚れました。

そんなチャラ男とのお付き合いも3年が経ち、
結婚することになりました。

 

31歳〜34歳:妻として母としての自分

結婚当初、旦那は交代勤務をしていました。

自分の仕事に加えて、旦那の出勤時間に合わせて
ご飯とお弁当を用意する生活が始まります。

早番の日は、4時に起き、
朝ごはんとお弁当を用意する。

遅番の日は、
仕事終わりにお弁当を用意していました。

専業主婦の母親の背中を見て育った私は、
結婚したら、妻である自分がご飯を用意して、
旦那さんを送り出す。

それが当たり前だと思っていたからです。

結婚後、すぐに子宝にも恵まれました。

初めての育児は大変だったものの、
我が子のあまりの可愛さに、夫婦揃ってメロメロでした。

1年間の育休があっという間に終わり、
職場復帰が近づいた頃、
すごくモヤモヤした気持ちが芽生えたのです。

もっと我が子の成長を近くで見たい。
もっともっと一緒にいたい。

もし私が仕事をしていなければ、
可愛い我が子の成長をずっと見ることができるのに・・・・

だけど旦那の稼ぎだけでは生活が苦しくなってしまう・・・

子供といたいのに働かないといけない。

その現実がなかなか受け入れられずに、
旦那の前で大泣きしました。

そして、時短勤務で復帰し、
仕事と家事育児の両立を頑張ろうと、覚悟を決めた矢先に
待っていたのは保育園の洗礼
でした。

当時はコロナがピークに流行っており、
一度発熱すると、解熱後24時間は自宅待機のルールがあったのです。

8時に保育園に送り届け、
9時半にはお迎え要請の電話がかかってくる。

その後、2日間は自宅で子供と缶詰状態。

そんな生活が続き、結局、復帰直後の1ヶ月で
出社できた日数は1日だけでした。

どんどん消化される有給休暇に焦る気持ちと
上司や同僚に迷惑をかけている申し訳なさ。

イヤイヤ期の娘に
イライラをぶつけてしまう心の余裕のなさ。

熱を出している娘の心配より先に
仕事の心配をしている自分

すべてにうんざりでした。

・・・あれ?私こんな家庭を築きたかったんだっけ?

幼い頃憧れていた家庭とまったく違う今の自分の状況が
だんだん受け入れられなくなってきました。

周りに迷惑をかけずに
娘との時間を大切にする働き方がないのか。

そう思っていた時、SNSのある文字が目に止まります。

それが「在宅ワーク」でした

在宅ワークができれば、
子供の体調不良で上司や同僚に迷惑をかけずに、
可愛い我が子の成長も、
仕事もどちらも叶えることができるかもしれない。

私にはこれしかない!!

そう思った私は、
起業スクールに入会して、新たな挑戦を始めました。

 

35歳〜:退職、そしてオンライン秘書スタート

スクールに入ってすぐの個別相談で、
経歴を見た講師の方から
「まずは会社員の経験を活かして起業家さんをサポートする立場から始めてみましょう」とアドバイスをもらいました。

副業禁止の会社に勤めていたので、
身バレなし、資格なしでもできる
オンライン秘書が私にはピッタリでした。

初めてのお客様は知り合いでした。

Excelをまとめたり、スケジュールの管理をして、
報酬2,500円をもらいました。

たった2,500円でしたが、
初めて自分で作ったお金は特別でした。

そこからお客様が1人増え、2人増え、、

あっという間に口コミだけで
半年後まで依頼が殺到するようになったのです。

日中は会社員の仕事をして、
子供を寝かせた後、22時から朝方の4時、5時頃まで
オンライン秘書として働く。

副業時は、そんなハードな生活でした。

だけど絶対に諦めたくなくて
とにかく必死に行動し続けました。

そんな努力が実を結び、
オンライン秘書として働き始めてた4ヶ月目には、
会社員以上の収入を得ることに成功しました。

そして、15年勤めた会社を退職して、
2023年6月から、オンライン秘書一本で活動をしています。

この1年で関わったお客様の数は20名。

今でも毎月ご紹介で2、3名の方からお問い合わせがあり
毎月30〜80万円を安定して稼げるようになっています。

1年前、違和感を感じた自分の感情にフタをしていたら、
今でも私は、

子供の体調不良のたびに、

上司や同僚に平謝りをし、

子供にイライラをぶつけて

毎日SNSで働き方について検索していたんだと思います。

あの時勇気を出して、オンライン秘書になると決めて本当に良かったです。

36歳、一児の母、ワンオペ育児のワーママ。

さらに資格も知識もゼロから在宅ワークに憧れて
オンライン秘書になりました。

そんな私だからこそ
同じように悩む女性に伝えられることがあると思いこのブログを始めました。

・毎朝出勤時間に追われて、
子供に「早くして!」と怒鳴ってしまう。

・子供が体調を崩すたびに、職場に謝って苦しい思いをしている。

・仕事も家庭も両方大事にしたい。

・子供に「おかえり」と言ってあげられるママになりたい。

そんな方に、
仕事と育児の両立に絶望した主婦が
在宅ワークに憧れて、オンライン秘書として成功するまでのリアルをお届けしていきます。